このところ、電車のなかでも、自宅でも、塚本邦雄の『王朝百首』を読み返している。
読む、というよりは、先に進むことを目的とせず、そこに並ぶ和歌、ひとつひとつの言葉のふくらみのなかで目や心をじっと休めるような眺めかたがふさわしい選歌集である。
異論を承知で「百人一首に秀歌はない」とまで言い切る著者が、自身の目で、八代集、六家集、歌仙集や歌合集などをくまなく巡り、王朝の歌人たちのそれぞれの最高作と思われるものを選び、百首を編んだ一冊なのだが、その緊張感に満ちた選歌はもちろん、吟味され尽くした歌の配置や、一首ごとの解釈、解説もすばらしく、読み進むほどに、平安期の和歌とは、こんなにも人が命をかけた仕事だったのか、とため息が出る。
わたし自身、たとえば、平安から鎌倉の歌を読むのはとても好きなのだが、正月の歌がるたとしておなじみの「小倉百人一首」は、通して読むたびに、どこか退屈で、どうしてこの歌人の歌から、あえてこの一首が採られたんだろう、と不思議にも感じていた。
つまり、ひととおり目を通せばよく、日々のなかで何度も開きたくなる、百首ではなかったのだ。
しかし、塚本邦雄の『王朝百首』は、驚きの選歌集だった。
文庫版の解説で、橋本治氏が、「まず「目次」を見て、私はボーッとなった。体がわなわなと震え出すような気がした。そこにはただ「美しいもの」が並んでいたからである」と書いているが、そのとおりなのである。
「『文字の並び』が生きた景色となって動く。焦点の合わない百首の歌の並びは、静かに動く季節の流れとなって、ゆっくりと進んで行く。・・・文字の並びが『流れる季節の美しさ』になって存在している目次などを見たのは、その時が初めてで、最後だった」と、橋本氏が語るように、塚本邦雄の手によってこの本に呼び集められた歌は、もはや単なる文字の配列ではなく、刻々と今この瞬間に、目の前に現れては消え、変化し続ける、空であり風、月、花影、そして、鳥の声などの、四季の命の躍動そのものなのである。
たとえば、何首か。
うすく濃き野邊のみどりの若草にあとまで見ゆる雪のむら消え
宮内卿
さくらばな散りぬる風のなごりには水無き空に波ぞたちける
紀貫之
移香の身にしむばかりちぎるとて扇の風の行方たづねむ
藤原定家
霞や桜花、朧月夜に陽炎、残り香になごり雪など、詠われているものの多くが、かすかで、はかなく、おぼろげであるからか、一首一首の余韻は長く、あとに残る熱は高い。
なかなか去らない熱を抱え、次の歌へと進めば、酔いはしだいに深くなり、濃い霞のなかにいるような心地になってしまう。
しかし、一流の美意識で描かれた美しい霞もまた、刻々と変化し続ける季節の形見でしかなく、その隙間からは、いつか巡り来る死や老いや別れ、そしてけして癒せない、人であることのかなしみが見え隠れする。
平安期から何世紀も経たのちに編まれた選歌集において、当時の歌の声が、こんなにも生々しく、人の生を慈しみながら響きあうのは、めずらしいことなのではないだろうか。
天性の歌人たちのさまざまな生の輝きが、塚本邦雄の手ならではの見事な配置で並べられているおかげで、すべての歌が、一斉に美しさを競い、高めあっているのが感じられる。
塚本氏は序文で、「一首のうつくしい歌とはかうして次元を隔てた人と人との交感のなかだちとなり、未来にむかつて生き続けようとするのだ。・・・・日本語から終生離れ得ぬ私たちの今日のため、否明日のために存在するものであり、心ある人の手で呼び覚まされる時を待ちわびつつ霞の奥で眠っている」と書いているが、この一冊こそ、「心ある人の手で呼び覚まされた」幸福な歌たちにめぐりあえる貴重な書物である。
初版はもう三十数年前に出された本ではあるが、どんなに時がめぐろうとも、王朝歌人たちのみずみずしい声は、読むたびに新鮮な驚きをもたらしてくれるだろう。
空を、風を見上げ、鳥の声に耳を澄ます、そんな時間がないときこそ、このページを開き、花から花を気まぐれに渡る蝶のように、歌から歌へと、霞から霞へと、心を遊ばせてみようかと思っている。